コラム 自分と価値観と壁

普段から自分の考えをしっかりと整理し見つめ直す事を良くします。 自分の仕事や作品や人に伝える事に責任を持つ為です。 常に色々な事を考えているので頭の中が次から次へと言葉が出てくるんですね。 読みにくいとは思いますが今回は、 文才も無いのであえて今回は抽象的に思ったまま書きますね。

①自分と価値観

時々と言うか度々自分が作る作品に嫌気がする時がある。

作った時は満足しても、出来上がると満足できないのである。 自分が作る物に。

それは30代になり最近感じる壁である。

先が少しづつ見えてくる怖さ。周りを見る怖さ。

歳をとって初めて見える物。

矛盾など答えの無い物ばかり。

度々それにため息ばかり出るのである。

当たり前の事を当たり前のクオリティで作る事に満足できない。 だから考え、努力する。 当たり前では誰でもできる。自分がやる意味がない。他の誰かで良い。 そう意味がないのである。 何か見えない壁に試行錯誤しながら努力し勉学に励む。

分からない壁と向き合う。

時間と努力と自分の満足する結果は比例せず、壁は変わらない。 回りを見れば時間と共に差をつけられる。 更に考えるが結論は出ない。 努力の仕方が違ったのか、何が効率が悪かったのか。 どこかで間違ってしまったのか。 後悔なんて過去の自分を否定するだけである。

何をどう考え自分を疑い壊し変化していくか考える。

疑うのである、自分やセンスや価値観を。 自分の視野の世界観や価値観で固まって決めらるセンス。 結局は自由に表現している様で、

日々感じている物からしか想像されない。

それは人間としての経験や厚みである。

 

何を学べばいいのだろう。 多くの本を読み人の見て話を聞き自分も話る。 言葉でも表現でも結局は経験し見なければ、幅は広がって行かない。 無意識に全ての評価の基準を決めてしまっては視野は広がらず、 盲目の様に少ししか見えない世界で勘違いをし、 全て見たつもりに正しいと思う。 見たつもりになり、聞いた物や情報に踊らされ知らぬ間に作られる価値観。 自分の食べている物や飲んでいる物、はたまた着ている物、音楽や靴など。 それは誰かの情報から作られた基準で選んでいるのである。 結局は物事や目の前の出来事が何が起きたかではなく、それを見て自分自身がどう感じたかであり。 物事を正しい正しくないなどと言う事は、 多数決など意味がなく、それも誰かが決めている事ではだはだ可笑しいのである。 自分の価値観を疑って行かなければいつか固まってしまう。 正しいと言う基準ですら疑ってかからなければ、 自己などと言う物すら一部の物しか見ていない愚かな、 その誰が決めたか分からない基準で決められているので、 正しいと思う自己すら疑ってかからなければいけない。 そうやって知らぬ間に見える物を制限し作られる価値観。 人はそれに染まる物である。 自分は自由に選択し縛られていないと思いながら作られていく。 昔からピラミッドと言う物は変わっていないのかもしれない。 時代が変わりあの手この手で満足させながら動く側と動かす側。 同じなのである。 動く側は動かす側の選択肢に自由を感じ誤魔化されて行く。 その動き自体がもう不自由なのである。 平等ではないのである。平等ではなくされているのである。崩れない程に。 表現がどう価値があるかなど人それぞれか、 もしくはその基準に犯された人それぞれなのである。 そう仮定するのであれば、 自己が導きだし考え、聞き目で選んだ情報や価値観で作りあげた物こそが価値に値するのである。 そこに意味があるか無いか。 それが重要だと思う。 しかしこの考えもまた誰かに犯され、 偏った視野によって決められた物である。 自己から見る物を増やす事はできる。 様々な人に会い場所に出向き考え、 情報を選択し行動を金を使い広げ判断材料を増やし頭の中で掻き集め混ぜ合わせ。 そして考えるのである。 見えているつもりで人は時間も行ける場所も限られているのである。 真理や深みに到達する前に人などあっと言う間に終わってしまう。 そうやって何も知らずに終わって行くのである。 自分を決め満足し全てを合理化と納得する。 そうやってただの人として過ごすのである。それがただの人の幸せである。 どこ迄も答えなく自分の感情や信念に騙され、 正解を決めたがる人はいつ迄たっても振り回される。 そんな物が正しいと思っているだけ幸せである。 そんな物などはいらない。 所詮意味など無いのだろう。 人も厄介な動物なのである。 自分が視野を決められる側の立場か、

自分が視野を作る立場か、 何をしたいのか。意味を持つのか持たないのか。

正直でありたい。 まだまだ先は見えない。